2018年12月
2018年12月31日
2018年の遊びと学びの振り返り
今年も,今日で終わりですね。
振り返りです。思うように時間が取れなかったと言うのが印象ですね。
遊びと学びを科学する学問専攻としては,二部門に分けて振り返り。
【遊び部門】
山の方は,六甲山,円山,定山渓小天狗,旭岳,西富良野岳,カミホロカメットックそして藻岩山・・・天気の良い日は山へと・・・そんな素敵な山生活を描いていたのだが。マラソンは,北広島の30キロ,そして北海道マラソンの2レース。昨年よりも5分速かった,まあ来年もいけそうですね。
増毛や長岡の酒蔵にも行ったし,温泉も楽しんだりはしたり,それなり遊んだけれど・・・遊び足りないという印象が。来年はもっと楽しまないとね。
そうそう,酒量が減った。きっと,がっつり飲まなくてもよくなった・・・加齢のせいかな。院生の頃は,学生たちとガバガバ呑んでいたからな(笑)
【学び部門】
講演と学習会が5回,相談会が札幌と旭川で2回ずつ,アソブンジャーが1回,キャンプが1回,ポスター発表が1回・・・これまた量的には今ひとつかな。なぜか,検査をとった数が多かった。例年は検査結果のセカンドオピニオンが多いのですがね。検査は,歳だから若者に任せるはずだったのですがね。当然,やる分学びが大きいわけですね。
自分で検査を取ることで,通り一辺倒の分析が,深い考察からエビデンスへと熟成され妄想に散りばめられた支援が見てくる感が(笑)常に自分に問いているのは,おまえなだ目の前の子どもにどんな援助をするのか・・・その援助は,具体的でかつ子どもも保護者も納得して取り組めるものなのか。
後輩たちと研究を始めてから10年近く,やっと自分の形ができてきた。決して,フォーマルな形ではないけれどね。
心理教育臨床屋としては,知能検査というツールを使い子どもの知的機能と学習過程の困り感を測り,エビデンスに基づいて学習や生活や行動を援助する・・・そういうことだね。
さらに,知的ギフテッドに関しての共同研究が形になったのが何よりですね。さっさと論文にと。あとは,引用と深い考察が加わればできるのですがね。
今年は,己の不学を知り,多少なりとも学べたのがよかったかな。世界を広げられたかなと。
今年1年で活動の枠組みとして,勉強会と相談会とアソブンジャーの活動が3本の柱として出来上がったかな。人づくりと,子どもと保護者の相談の場,そして遊びの場。
なんとか年を越せそうですね。
なんと,大晦日だというのに東京からBOSSの宿題が届いた(笑)
阿羅漢にむけた修行の日々は続く。
今年もブログを読んでいただきありがとうございます。
3月,9月の関西遠征では色々な方にお世話になりました。
心からお礼を申し上げます。
良いお年をお迎えください。
2018年12月30日
平面的な教育から多面的な教育への転換・・・インクルーシブ教育とGifted
今日は,目覚めとともに「心理臨床」と「教育臨床」の違いについて,頭なのかなに浮かんだ。
「心理臨床とは、心理的問題に対して、臨床心理学に基づく知識や技法を用いて解決や克服を促進する営みを指しています」(心理臨床を学ぶ/医学映像教育センター)と。では「教育臨床」と言うより「臨床教育」がスタンダードなのか。
結局,どちらにしても自分の中ではぴったり来ない,心理の世界でも教育の世界でも居場所が見つけられない。だからどっちに行っても生き辛いのね(笑)
まあ,相談会してアソブンジャーしているのが一番さ。
年末が押し迫っているが,今日も年明けの宿題と向き合っていた。
退職した分,宿題が増殖したような気がするのだが,アロウェイさん的にはワーキングメモリーを鍛えられているということか。
知的障害のある子どもたちの学習について考えるべく,文献を当たっていたのだが・・・。
探し方が悪いのか,知的障害の学習支援は塾やディサービスがわんさと出てくるだが,特別支援教育ではなかなかヒットしなかった。
それが現実なのかな。
視点を変えて,共生社会の中で豊かな生活を実現する上で,トータルでどのような支援が必要なのか。
ふらふらと,特別支援高等学校のインクルーシブ教育について調べてみた。文部科学省のインクルーシブ教育システム推進事業を眺めているのだが特別支援学校高等部の学習指導要領には,インクルーシブ教育が触れられていないような・・・。
「特別な支援を必要とする子供への就学前から学齢期、社会参加までの切れ目ない支援体制整備」と謳いながらも,あきらかに切れているわけだ。
「障害者の権利に関する条約」の24条教育での,「教育制度一般から排除されないこと」,「完全な包容という目標に合致する効果的で個別化された支援措置」が歌われていながら,現実は切れ目どころか相変わらずの分離教育。
なぜだろう・・・
日本の教育は,「面の平等」。常に普通や平均を求めている。だから,確実に面からこぼれ落ちる子どもが存在する。それはGiftedであり神経発達障害の子どもたち。
平面的な教育から多面的な教育への転換・・・これは日本の教育の転換・・・・。
YちゃんシンポでGiftedを取り上げるとしたら,ギフテッドを含めた多様などもたちの支援が可能な多面的教育を実現するには・・・広すぎる。
2018年12月29日
保護者が心理検査に求めるもの・・・検査結果を生かすのが検査者の役割
昨日のツイッタランドで,久しぶりに🐶🐶🐶の連投が。
はじまりは,分析がなされていない検査結果に対してのつぶやきから。検査をしたのだから,エビデンスに基づいた分析結果を伝えて欲しいと。
「某×市××でWISK4の結果聞いてきたけど、レポートの提出はないし、下位検査間での分析もないし、データからの話はなくて行動観察の話ばっかりだし、テストバッテリーでの分析も説明無しだし、ホント××かと。」
さらに,つぶやきは続く・・・検査の本質的な部分と,検査者の資質を問いている。わざわざ検査に行くのは,困り感に対してどう対処したら良いかを知るために。認知心理学と教育学をツールに子どもの心にお邪魔する。
「困り感の背景を分析出来ないで、そりゃあコーディネートも出来ないわなぁ。ま、認知心理学や教育学を詰めてない人間がやるってこういうことなのね。困り感の背景を個人内で探すのはありがちだけど、個人-社会間の有機的な軋轢とかは分析されにくいことだし、何より犯人探しをするだけで解決志向がないのね。」
検査者は探偵さんですからね,データから痕跡を探し,事件の解決へと導く。
そして,求められる検査者というか援助者のあるべき姿。問われるのは,保護者と子どもが何を求めているのか。検査者は,子どもと保護者に対してどのような援助ができるのか・・・。
「こどもの特性なんて、一緒にいる人間は経験的にわかってくるもので(特にマイナス面)、検査の行動観察から再度特性を言われても「だから何?」ってなるんだわ。必要なのはその向こうで、困った時にどうするかの情報なんです。困ったらどうすべきか、困らないようにどうするか、そのための共同戦線を張って、戦略を生み出すのが発達援助なのにねぇ。」
キレキレのつぶやきでしたね。見事に,本質的な部分を突いているね。1月の講義に使わせていただこう。
「なんのために検査をするのか」・・・それは子どもの生活が少しでもよくなるために・・・保護者の不安が少しでも解消させるため。行動観察だけで説明できるのなら,検査なんかしないほうがいいよ。検査機関に連れ行かれて検査されることは,子どもにとっても保護者にとっても精神的にしんどいよ。
常に問われるのは,己はどうなのか?振り返り。
少なくとも検査と相談を通して保護者の肩の荷がおり,理解が進み,子どもも保護者も笑顔になったらと・・・。そう簡単に素敵な答えは見つからないけれど,一緒に悩み考えることはできるわけ。最近の相談の〆の言葉は,「困ったら連絡してね」・・・この言葉は,結局のところ保護者と子どもが選んでくれないことには,効力が発動されない。
体調が悪いから,アップをしてベッドでごろごろ。
2018年12月28日
”知的ギフテッド”のOverexcitabilitiesと教師の不適切な対応
年賀状をなんとか作った。断捨離をしたから,以前に比べるとはるかに少ないのですがね。来年からは,snsでご挨拶ということで許してもらおう。ひとまずこれで,年内の案件は全てカタがついた。
論文2本,書き物1本,レポート1本は,年を越してもいいか。年明けは,ぷりすむの相談会でスタートかな。
今まで異端研の相談会で関わった方から,時々近況が送られてきます。それを読むのが楽しみですね。まあ,みんな学校はつまらないだろうし,超低空卯飛行で学校に通っているのは想像がつくのですがね。いろいろと考えてしまうのね。
この1年で“知的Gifted”の量的な研究は,少しずつ進んできたかな。知能を多重的に捉えながら,子どもたちの情緒面,対人面,運動面,感覚面などで抱える困難が,が社会的な適応の課題を生み出している。結果として,学校生活で不適応を起こしている子どもが多い。
不適応を起こすのは・・・なぜか?自己制御が苦手という要因はあるが,教師の不適切な対応に一因があるのだろうな。凸凹な子どもを理解するのが難しいということか。
よく言えば教師のさり気ない言動,悪く言えば不適切な言動が,Overexcitabilitiesを持つGifted childrenに多大なダメージを与えている?過敏というのは,言葉の持つボリューム・・・増幅されて入力するために,・・・フィルタリング機能が脆弱なために,より大きなダメージを受けてしまうわけだ。
そろそろ真剣に学校に対しても援助的介入をしなければと思いつつも,なかなか学校には足が向かん。伏魔殿だからな・・・おいらはまだ勇者の称号を受けていなしね,冒険をするには武器が足りない。
せめて,サバティカルのうちにインタビューシートを中心に,素人ながら質的研究に取り組みたいと思っているのだ。
そこから,不適切な教師の対応をまとめたられたらいいのだが。
2018年12月27日
学びの連続性から特別支援教育の限界を考える・・・知性を育てないと
気がつけば27日ですね。やっと宿題を終えて,ボスのもとへ。
父母の眠るお寺に今年最後の挨拶をし,苗穂駅へ。撮り鉄してボスのところへ。SGUは,雪山が巨大化していました。これからどんどん大きくなりますね。
この数日,ブログにたどりつかなかった。老眼のせいで,作業効率が一気に落ちている。ノートパソコンの文字が見えない・・・疲れる・・・やる気が削がれる・・・そういうことだ。パソコンをでかくするか,某ルーペを買うか。二択だね。なんとか抑制を働かせ,無事にブツを納めてきた。
遅ればせながらクリスマスと忘年会。ということで,北海道民は,ジンパですね。相方と🍺園で待ち合わせ。お気に入りの塩ラムを楽しんできました。
年末は,少しのんびりですね。
週末にバリィさんの囚論の話をしながら考えていたのは
学びの連続性・・・教育内容が分断されていることが,がインクルーシブ教育の実現を拒んでいる。
IQの数値が少しだけ異なるだけで,教育内容が大きく異なる。そこが問題。
特別支援学級の在籍数が異常に増えているのは,エクスクルージョンが進んでいるか。保護者や子どもが望んでいるのか?通常学級では,インクルーシブできないから新たな場を求めているだけ。
学びの連続性を保障する・・・そう考えると,知的障害や発達障害を持つお子さんにどのような学びを保障していくのか・・・生活単元学習や作業学習,体力作りでは限界があるということ。
一人一人のアセスメントに基づいた適切な教育内容が用意されていないということ。
学びの連続性は,幅が広いということ。常に求められるのは,個々の教育的ニーズに応えられるか。残念ながら,今の特別支援教育には,システム的にも専門性から考えても限界があるということ。
特別支援教育にはエビデンスがあるか?問われるのはそこだね。教師の中には,子どもの学習や行動上の困難の原因を障害に帰することが多くみられる。
「学びの連続性」は,知的障害から知的ギフテッドまで,幅広い子どもたちの「学び」をいかに援助できるか・・・ということだな。








